8月2日A年 年間第18主日
 新型コロナウイルス感染症の影響で、今年三月初めから日曜日も平日もミサがなくなりました。実は、司祭が一人でささげていたのです。誰もいない香部屋でミサをするのは、とても寂しいことでした。会衆が答えるところも司祭が唱えなければなりません。そのうち教会のすべての活動も止まってしまいました。このような状況になるとは、考えたこともありませんでした。信徒の皆さんと一緒にささげるミサがどれほど信仰生活にとって大切なものであったかを、改めて感じることができました。今回のことは、ミサが私たちにとってどのような意味を持っているのかを考える機会を与えてくれました。東京大司教区では、ミサをインターネット配信し始めました。私もインターネット配信を考えたことがありましたが、やめました。なぜなら、ミサはみんなが集まって、祭壇を囲んで行うものだからです。インターネット配信ミサを観た信者さんは、テレビで見るミサには聖体拝領がないので、メイン料理のないフルコースのフランス料理のようだと言いました。やはりミサは、みんなが集まって捧げるものなのだとわかりました。
 一つのパンを分かち合う聖体拝領は、ミサの中でも大切な部分です。人生の最後の場面で、聖体の大切さに気付いた人がいました。九州の五島列島から大阪に移ってきたKさんです。Kさんは若い時、両親に連れられて大阪にやってきました。子どものころからの信者でした。五島列島にいるときは、毎日教会に通っていました。ミサに与かり、教会で勉強し、教会で遊んでいました。大阪で成人になり、仕事にも就きました。やがて結婚して、子どもも生まれました。その頃から生活に追われ、教会から離れてしまいました。長い間、信仰とは関係ない生活を送っていました。やがて子どもたちも独立し、夫婦だけの生活になりました。その頃、体調が悪くなり病院に行きました。そこで末期のがんであることが分かったのです。奥さんが教会に来られて、ぜひ病院に来てほしいとKさんの願いを伝えました。そこで病院を訪問しました。Kさんの病状は悪く、ほとんど話もできない状態でした。奥さんの話では、Kさんは入院してから毎日祈るようになったそうです。私も病室で一緒に祈り、病者の塗油を授けました。聖体も授けたかったのですが、もう何も食べられないのであきらめかけました。ところがKさんは聖体をいただこうとするのです、必死になって。ほんの少しのかけらを食べることができました。Kさんは、人生の最後に、何が一番大切なのかを見出したのでした。
 望めばいつでも得られると思うと、ありがたみが分からなくなることがあります。それがなくなりそうになって、初めてありがたさに気づくのです。ミサも聖体もコロナのせいで自由に受けられなくなった時、初めてそのありがたさに気が付きました。神様の愛も同じだと思います。いつでもどんな所でも、神様の愛は私たちに注がれています。それだけに、私たちは当たり前だと勘違いして、軽く扱ってしまいがちです。ガリラヤ湖に集まっていた人々は、イエス差からのパンをいただいた時、イエス様を通して与えられた神様の大きな愛に気づいたのではないでしょうか。それは、心と体を満たす本物の糧だったのです。

 

8月9日A年 年間第18主日 
 新型コロナウイル禍のさなか、「これにはどんな神様からのメッセージがあるのですか」とか「新型コロナウイルも神が創造されたのですか」など、問いかける声を聞きました。今日の第一朗読を読むと、激しい風、地震、火、自然現象の中に神はおられず、静かにささやくような声が神の言葉だったと書かれています。神様が人間の前に現れるときに自然現象を伴って現れることが否定されています。神様は、耳を澄ませないと聞き逃してしまうような「静かにささやく声」として語りかけてくることがあるのです。新型コロナ禍の中に神様はおられず、静かにささやく声を通して私たちにメッセージを送っているのでしょう。
その声を聞き逃さないようにしたいものです。
 マタイ福音書は、ペトロが水の上のイエス様のところに行きたいと考え、イエスの「来なさい」の声に従って、船から降りて水の上を歩きだすエピソードを語ります。しかし、強い風とさかまく波という自然現象を前に恐怖を覚え、そのために沈みかけます。ペトロが助けを求めて叫ぶと、イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを救いました。ペトロは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られてしまいました。
 イエス様の言葉にある「疑う」は、ギリシャ語で「ディスタゾー」ですが、この語は「ディス」(二度・二重)から派生した動詞で、あることに関して二番目の(別の)考えを持つとの意味があります。ここでのペトロは、「水の上を歩いてイエス様のもとに行きたい」と考えると同時に、「強い風に気づいて怖くなる」との別な考えを抱きました。このような想いが二つに分かれた状態をディスタゾーは表現しているのです。
 新型コロナウイルスが再び感染を広げる中で、知事をはじめとする各地の首長たちは、できるだけ外出を避けて自粛しようと呼びかけます。反面、政府はGo To キャンペーンとして旅行に出かけようと呼びかけ、感染拡大を第二の波と認めず緊急事態宣言も出そうとはしません。帰省は控えようという一方で、旅行に出かけようと呼びかけられるのです。私たちはいったいどうしたらよいのでしょうか。この状態、まさしくディスタゾーではないでしょうか。
そうなると私たちはどちらに進めばよいのか迷ってしまいます。そして、政府に対する不信や疑心暗鬼が大きくなってゆくのです。
 ところで、舟に乗った弟子たちは風と波にもてあそばされます。おびえる弟子たちの前にイエス様は表れて「わたしだ」と声をかけます。イエス様はこの言葉を用いて、逆風と荒波という困難の中にも神様が共にいてくださることを示されたのです。湖の上を歩き、風を静めるイエス様に、人間に襲いかかる自然の脅威を支配する神様の力が示され、その神様が常に共にいてくださることがあらわされます。
 ペトロは、そのイエスの力を頼りに一歩を踏み出します。結果として、ペトロの試みは失敗に終わりました。ところが、ペトロの勇気ある行動が舟に残っていた弟子たちの「本当に、あなたは神の子です」との信仰告白を引き出したのです。心に疑い(ディスタゾー)が生じる事態にあって、困難にくじけそうになる時があります。
イエス様はその時を、私たちが神様と出会う場に変えられるのです。疑いを生じる場が信仰が生じる場へと変えられてゆくのです。イエス様の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との声に応えて、勇気をもって、一歩を踏み出しましょう。
 
2020年8月15日 聖母の被昇天
 マリアは、年を取っているにもかかわらず洗礼者ヨハネを身ごもったエリザベトと出会い、自分が聖霊によって身ごもっている事実を確認します。
自分が宿しているのは救い主であり、神様の子どもなのだと理解したのでした。その日から、マリアは神の母としての道を歩み始めたのです。
 マリアはイエス様を出産した後も、イエス様と共に生き抜きました。イエス様が十字架に挙げられた日、マリアはその傍らにいました。マリアの歩みはそこで終わったのではありませんでした。聖霊降臨は、教会の誕生と言われています。聖霊降臨を描く宗教画には、マリアを中心に集まっている弟子たちの上に聖霊が下っている様子が描き出されています。使徒言行録には、「弟子たちは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて祈っていた」(1:14)と明言されています。
 十字架の日から復活したイエスに弟子たちが出会うまで、イエスを裏切ってしまった自分たちの情けなさに涙する弟子たちをマリアは母の祈りで支えたのです。
聖霊降臨を通して生まれたばかりの教会を、マリアは優しい祈りで支えられたのです。そのことからマリアは教会の母になられたのです。教会の母として生涯を閉じたマリアを、天におられる父なる神様は、被昇天という形で天に迎えられたのです。
 マリアは今も教会の母として、祈り続けておられます。教会の母である聖母マリアを尊敬し、その取次ぎを願って、今日も祈りましょう。
 
8月16日A年 年間第20主日 
 イエス様はカナンの女に「あなたの信仰は立派だ」と声をかけられました。イエス様はカナンの女のどこを見て、信仰をほめられたのでしょうか?
 カナン人はイスラエルと約束の地を争う永遠のライバルでした。カナン人は農耕文化と都市文化を発達させ、多神教的な宗教を持っていました。ダビデ王がカナン人の街をすべて支配下に置いてから、イスラエルはカナンの影響を強く受けはじめ、カナン人の宗教や生活習慣と戦わなければならなかったのです。
 イスラエルと敵対する異邦人であるカナン人の女が、イエス様をダビデの子、救い主と認めることなどありえなかったのです。そのカナンの女がイエス様を全面的に信頼して、救いを求めたのです。よほどの事情があったのでしょう。イエス様は出会いの時から、カナンの女の信仰を認めていたのです。そして、会話を通して女の「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」とのウイットに富んだ言葉を引き出したのです。
カナンの女の信仰とイエス様の自由な対応は、イスラエルこそ救われるべきだとの考えに固執し、十戒と律法を絶対視して、イエス様を救い主と認められなかった、硬直したファリサイ派や律法学者と見事に対比されています。
 イエス様は、こうあるべきだとか、こうでないといけないというルールに縛られていません。非常に自由に救いの業を行われています。教会の信仰によって、必死に祈り求める者に顔を背けられ、追い返されることはありえないのです。かならず手を伸ばしてくださいます。
 
8月23日A年 年間第21主日
 最初に、イエス様は、弟子たちに「人々は、私のことを何者だと言っているか?」と質問されました。弟子たちは口々に聞いていることを答えました。ついで、イエス様は弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と質問されました。シモン・ペトロが弟子たちを代表して「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。それは正しい信仰告白でした。
 イエス様はそのペトロの上に教会を建て、天の国の鍵を授けると言われました。つまり、人々を神の国に導き入れる役目を与えられたのです。地上では神の国の建設のために集まる教会に人々を招き入れる役目、天上では神の国に人々を招き入れる役目をイエス様はペトロに与えられたのです。
このような重たい任務を与えたことは、イエス様がペトロを心から信頼していた証しだとわかります。
 この重い任務は、ペトロを第一代の教皇として歴代の教皇に受け継がれてきました。同時に、教皇の協力者である司教団に委ねられました。司教は、自分に委ねられた司教区において教皇と同じ働きを担当します。司教区の中では、司教の協力者であり小教区をゆだねられた主任司祭が教皇(司教)の果たすべき任務を受け持ちます。教会は「呼び集められた者」という意味で、キリスト者の集いを表します。小教区は、キリスト者が集まっている地域を指します。しかし、司教区はある程度明確な地域割りが決まっていますが、小教区の地域割りは必ずしもはっきり決まっているわけではありません。伝統的に聖堂の立地している周辺が小教区とされています。
 教会の歴史はペトロに始まり、教会の務めもペトロに由来しているのです。それでは、イエス様から天の国の鍵を預かったペトロとは、どのような人物だったのでしょうか。福音書で、ペトロはイエス様の一番大切な弟子で、他の弟子よりたくさん登場します。ペトロは漁師でした。イエス様と出会い、イエス様に呼ばれて、漁師の仕事を辞めて従いました。単純にイエス様を好きになり、信じたのでした。そしてイエス様と共に歩み始めました。ペトロは最後の晩餐の席で、イエス様を絶対に裏切らないと言い切ったのに、イエス様の言ったとおり鶏が三度鳴く前にイエス様を知らないと言ってしまったのです。ペトロは人間的な弱さを持った人でした。自分の弱さからイエス様を裏切ってしまいました。ペトロはその裏切りの中で復活したイエス様に出会い、深い愛にふたたび包まれて、生涯イエス様に従おうと固く決心しました。イエス様は、そのペトロに天の国の鍵という大切な役目を渡したのですから、ペトロが必ずご自分のところに戻ってくるとの確信があったに違いありません。
 神様の選びと私たち人間の選びとには決定的な違いがあります。神様の選びには、その人の容姿や能力は関係ありません。むしろ貧しく弱い人、普通の人、何の取り柄のない人が選ばれるのです。それは、働くのは神様だからです。その人を通して神様が働かれるのです。ペトロの信仰告白も天の父の力によるものでした。
 また神様は選びを行うとき、人間が失敗したり罪のゆえに神様を裏切ったりすることも織り込んでいるように思われます。かならず、つまずきから立ち直って戻ってくると信じて、選ばれるのです。失敗や遠回りさえも神の愛を知るための道であり、救いの道の道筋なのです。イエス様は、弱さを持つ人間を選んでペトロの後継者とされ、ご自分の果たすべき使命をゆだねられたのです。
 
8月30日A年 年間第22主日 
 イエス様がご自分の受難・死・復活の話をはじめられた時、ペトロはイエス様をいさめようとします。すると「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と、厳しく叱責されました。
 ちょっとイエス様、ペトロがかわいそうではありませんか、と思ったのは私だけでしょうか?もしもその場にいたら私も「イエス様、それはないでしょう!あなたが殺されたら私たちはどうなるのですか?」なんて言ってしまうに違いないです。やはり、イエス様から叱られていたことでしょう。
 でも安心してください。ペトロへの厳しい言葉は、実は弟子たちへの新しい教育への導入だったのです。イエス様は「神のこと」と「人間のこと」を持ち出して、「神のこと」とは何かを説明し始めます。イエス様は、ペトロを含む弟子たちをもっと高い理解へと導こうとされていたのだと思います。
 イエス様は弟子たちに「神のこと」を説明します。「わたし(イエス)に従うこと」、
「自分を捨てること(否定するとも言えます)」「自分の十字架を背負うこと(生活の苦労ではなく、イエスの与える使命)」、「自分の命を救うこと」、「わたし(イエス)のために命を失うこと(殉教と言えます)」、「全世界を手に入れること」、「自分の命を買い戻す(復活するともとれます)こと」、「それぞれの行いに応じて報いること」、この中の一つとして自分の力、人間の力で成し遂げられるものはありません。そのすべてが可能なのは神だけです。
 イエス様は「神のことを」を示しながら、弟子たちに「神のこと」を信じて協力するように教えられたのです。当たり前だと思うのですが、そのことを弟子たちはすぐには理解できなかったのでしょう。
 「神のこと」を実行するのは困難です。私だって、この原稿を書いているとき「今週は葬儀が二つあって忙しかったし、そのほかにもいろいろあって疲れているから、過去の説教原稿をそのまま出したいなあ」なんて思っていました。まさにサタンの誘惑です。それに従っていたら、イエス様から叱られたことでしょう。
 第一朗読に登場するエレミヤも「神のこと」に苦しんだ一人です。神様と出会って、神の言葉に夢中になり、それを人々に語りました。すると、気が付いたらひとりぼっちになってしまっていたのです。主の言葉を語らないでおこうと思っても、神様がそばにいるのでやめることができません。エレミヤは、神様に全面的に降伏するしかありませんでした。
 イエス様が「神のこと」を実行しようとされるとき、それに協力するのはかなり難しいと思います。私たちはどうしても「人間のこと」にとらわれてしまうからです。
エレミヤのように苦しんでいると、イエス様がそばに来て「自分の力だけで私に従うのは無理ですよ。だから、私があなたのそばにいて導くのです。あなたは私を心から信頼して、身をまかせればよいのです」と声をかけられます。
 エレミヤのように「わたしの負けです」と降参した時、「神のこと」への道は開かれるのではないでしょうか。あなたも「神のこと」に招かれているのです。「人間のこと」を捨てることができない私たちは、イエス様に導かれるほかには「神のこと」に取り組むことはできないのです。イエス様に信頼して、身をまかせてみましょう。
 
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