7月05日A年 年間第14主日
 「バスの中で咳をしている人がいる」「外で手をつないでいるカップルがいる」新型コロナウイルス感染症の感染拡大が深刻になる中で、政府による緊急事態宣言が出た頃に、警察に寄せられた110番通報の実例です。
 街を回って、飲食店が午後8時に閉店しているかどうかチェックする集団が現れました。遅くまで営業している店を見つけると、「時間を守れ」と店に電話します。
さらに「なぜ、閉店時刻を守らないのか、ルールが守られないなら休業しろ」と張り紙を張られた店もありました。警察には取り締まれとの電話がたくさん入りました。
 県外ナンバーの車に、「すぐに出ていけ」や「コロナをまき散らすな」と張り紙される事件が起きました。仕事なので東京から異動してきた人に、差別的な振る舞いをする人がでてきました。
 病院に勤務する看護師(女性)の夫は、会社から「奥さんが看護師をやめないのなら、あなたは会社を辞めてください」と言われたそうです。また、看護師の子どもが保育園に行くのを断られたり、妊娠している看護師がほかの病院での診察を断られたりすることもありました。 このような状況を「コロナハラスメント」と呼びます。このようなコロナハラスメントが起きるのはなぜでしょうか?様々な理由が考えられています。例えば、政府という大きな権力に従うことで、自分も小さな権力者になり、正義の力を使うことに魅力を感じていたのかもしれません。政府という権威に協力するという正義感のもとで、権威に従わない人を攻撃することで喜びを感じていたと考えられます。あるいは、自分はやりたいことを我慢しているのに、我慢していないように見える人への嫉妬心が、懲らしめてやろうという感情を生んだのかもしれません。
 イエスの時代、イエスと対立した人々の中にファリサイ派と呼ばれる人たちがいました。彼らは、十戒や律法を厳しく守っていましたし、人々にも守るように要求していました。ファリサイという言葉の意味は、「分離する」です。すなわち、律法を守れるかどうかで人を分けて、守れない人たちに「お前たちは律法が守れないから、神様から見捨てられ救われることがない」と宣言していました。
 ファリサイ派の人々には、コロナハラスメントをしていた人に共通する部分があるのではないでしょうか。神様の権威のもとで小さな権力者となって、律法を守れない人を責めたり、自分が律法をまじめに守っているので、律法に関係なく自由にふるまっている人に嫉妬心を抱いて激しい攻撃を加えたりしたのかもしれません。
 イエスは、律法を守ることのできない弱い立場の人々のところへ行き、「あなた方の重荷を私も担うよ」と語りかけたのでした。イエスは命をかけて、生活のために律法を破らざるを得ない人たちを守ると宣言されたのです。コロナ時代を生きる私たちも「重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」と言われたイエスの言葉の意味を、深く味わいたいと思います。
 
7月12日A年 年間第15主日
 創世記、天地創造の初め「光あれ」の言葉をもって神は天地創造を始められました。ヨハネ福音書では、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。
言は神であった」と神の言葉による再創造を記しています。
預言者イザヤは、天から降った雨や雪が大地を潤し自然からの恵みを与えるように、神の言葉も神の望みを成し遂げ、使命を果たすと語ります。 このように聖書では、神の言葉は私たちの現実に働きかけ、私たちの現実を変える力があると繰り返し語られているのです。
 神の言葉ほどではないにしろ、人間の言葉にも力があると感じた事件が最近もありました。木村花さんが命を絶った事件です。木村花さんは、公募で集められた男女6人が共同生活を送る様子を撮影した「テラスハウス」という人気番組に出演していました。スタッフからの過剰な演出があったともいわれていますが、彼女の言動がソーシャルネットワーキングサービス(ツイッターやフェイスブックなどのインターネットを介したコミュニケーションツール)で炎上と言いますが、集中攻撃に遭いました。一人や二人からの罵詈雑言なら耐えられたかもしれませんが、数百にのぼる投書は若い木村花さんの生きる意志を打ち砕いてしまったのではないでしょうか。
言葉のもつ破壊力のすさまじさです。
 少し前なら、テレビの前でぶつぶつつぶやくだけで決して本人に届くはずのない言葉が、インターネットを通じて本人に直接届いてしまうのです。同じような視聴者参加型の番組で自殺者が出る悲劇が、世界中で繰り返されているのです。
 私が応援している夫婦デュオ「ちむぐくる」に「言葉」という曲があります。その一節を。

   優しい言葉は太陽のように、冷え切った心を温める
   厳しい言葉は海のように、揺らいだ心を落ち着かせる
   あなたの言葉に励まされ、あなたの言葉に涙する。
   あなたの心を真っすぐに、伝える勇気が言葉になる。

 人の言葉のもつ温かさ、人を生かす力を見事に歌いあげています。
 イエス様はガリラヤ湖畔に集まった人々に対して、神の言葉について語られました。たとえを用いて語られたイエス様の言葉は、その後で弟子たちが解説を求めたように、人々には理解することが難しかったかもしれません。しかし、イエス様の言葉を真剣に求めて、一言も聞き逃すまいと聞き入っていた人には届いたことでしょう。
 イエス様は神の言葉です。イエス様は神の言葉をまく人です。どんな所でも、誰に対しても神の言葉を語り続けます。理解できるか、受け入れるかなど関係なく語り続けられます。イエス様が来られる前の人々には、望んでも決して得ることができなかった言葉です。
 人間の言葉には、人を殺す毒が含まれています。しかし、神の言葉には人を生かす力しかありません。それは神が人間を愛していて、生きてほしいと願うからです。
その言葉は、世界中に今も溢れています。それをどのように聞くのか?私たちは問われています。

7月19日A年 年間第15主日 
 新約聖書のヤコブの手紙は、実践的な信仰生活の在り方を語っています。その一節にこ
のような文章があります。
「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。
もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」(ヤコブの手紙4:11~12)
 少し解説のいる個所です。悪口は「あっこう」と読みます。悪口は、相手を一方的に悪く言ったり落とし込めたりして足を引っ張るために言い放つ言葉ではないようです。相手を裁くこととセットで用いられているので、相手の悪いところを裁き、その内容を相手にもはっきり伝えることだと考えてよいでしょう。ですから、相手のことを思い、相手をよいように変えようと思って言う言葉が、結果として相手を裁き悪口を言うことになってしまうのです。ヤコブがこのように言う背景にあるのは、神はあなたも兄弟も良いものとして造られたので互いに責め合うことないということ、人間を裁くことができるのはすべてを知っておられる神様だけだから、神様に代わって人を裁くことはできないということです。「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのか」、このヤコブの言葉を大切にしたいと思います。
 今日の福音の個所は、「毒麦のたとえ」と呼ばれていますが、ヤコブの手紙と共通のテーマが語られていると思います。たとえられている「天の国」は、死んだ後に入る天国のことではなくこの世界に始まっている神の国(支配)のことです。この世のことなのです。「良い種を畑に蒔いた」とあるように、またその後に出てくる「からし種」と「パン種」の小さな二つのたとえ話にも共通なのは、神はこの世界をそして人間を良いものとして造られたのです。そこのところがヤコブの手紙との共通点でもあるのです。
 良いものとして造られた世界に悪いものと思える存在が現れてきます。毒麦がそれですが、私たちはそれが広がって悪い影響をよい麦に与えないように抜いてしまいたいとの欲求にかられます。それに対してイエス様は、父なる神様がちゃんとさばいてくれる時まで、そのままにしておこうと言われます。毒麦を人間が抜こうとするなら、それは自分が神になって裁きを行うことになりますから、神様に逆らうことになってしまいます。「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのか」に共通したテーマだと思います。
 第一朗読、知恵の書にあるように神の裁きは正しく、その特徴は寛容であることにあるのです。そして、第二朗読でパウロが言う通り、弱い私たちを助けてくださる神の霊、すなわち聖霊は、父なる神の御心に従って私たちを裁くのではなく執り成しをするためにあるのです。神様がこのように振る舞われるなら、不完全で聖霊の助けがなければ生きることのできない私たちは、裁きを神に任せて人との和解と愛のために働いてゆくべきでしょう。

7月26日A年年間第17主日
 今日のミサ、第一朗読では列王記が朗読されます。有名な箇所です。若くして王になったソロモンに、神様は「何事でも願うがよい。
あなたに与えよう」と声をかけられます。望むものを何でも与えようと約束されるのです。うらやましい話ですね。あなたなら何を神様に願いますか?今なら、新型コロナウイルスを終息させてくださいと願うと、かっこよいかもしれません。それともせっかくだから、自分の幸せを願ってみますか?
 ソロモン王は、自分のことを一切求めませんでした。ソロモン王は自分に与えられた民を裁く(立法、行政、司法、福祉を含む概念です)ために必要な聞く力(善悪を聞き分けて判断できる能力)を求めたのです。神様は、ソロモン王が、自分のために何かを求めるのではなく、国民への奉仕の力を求めたことを非常に喜ばれました。ソロモン王は若いにもかかわらず、国王が国民への奉仕、つまり国民のために働く存在だとしっかり理解していたのです。神様は、ソロモン王がそのことを理解していたと喜んだのです。同様に、この話を通して神様が私たち人間に与える力の数々(能力、才能、時間など)はほかの人のために使うのだと教えているのです。 使徒パウロはローマの教会の信徒に、神の計画実現のために選ばれた者、神から愛される者は、御子イエス・キリストに似た姿に変えられると言います。イエスが人々の救いのために十字架に上げられた姿、その姿に似た者になるということでしょう。神の救いの計画に協力しようとして働いていると、その人は十字架のイエスに似てくるのだと、パウロは断言しています。神様が共に働いてくださる、そのことが証明されます。
 今日の福音、イエス様は集まっている人々に「天の国(神の国)」のたとえを語られました。天の国、それは神の国と同じ意味ですが、それは全財産を投げうってでも手に入れるべき価値があるということです。ただ、それだけではなく、神に代わって民を正しくさばくために選ばれたソロモン王、パウロが言う、神を愛して神の救いの計画のために召し出された人との関連で考える必要があります。そう考えると、イエスのたとえ話の要旨は、神の救いの計画実現のために働く人の姿は、宝が隠された畑を発見した人に似ているということになります。天の国に至る道筋、あるいは天の国を実現する方法を発見した人は、「持ち物をすっかり売り払って」でもそれを手に入れるのです。自分の発見に喜び、自分のもっているものをすべて差し出してその実現のために尽力するのです。自分のものをすべて差し出して救いの計画に参加するのです。
 私たちは神様からたくさんの恵みをいただいています。それらの恵みは、自分のためにあるのではなく、神様の救いの計画実現に協力するためにあるのです。
神様から与えられている恵みを、神様の望みに従って正しく人への奉仕のために使うなら、私たちは十字架上のイエス・キリストの姿と同じ姿に変えられ、神と共に働くことができるようになります。その先には、全財産を投げうった以上の大きな喜びが待っているのです。人生の目的である自己実現は、神と人への奉仕から生まれるのです。
 
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