6月21日A年 年間第12主日
 今日読まれた福音、イエスは弟子たちにやがて来る迫害の時代を預言します。それは、マタイの教会の時代に起こる迫害でもありました。イエス・キリストを信じる者は迫害を受け、なかには殺される人も出てくる、そんな預言でした。
 翻って、日本の教会もたくさんの殉教者を生んできました。ところが、殉教者の話をするとかならず同じ反応が返ってきます。それは「私には殉教は絶対無理だ」、「殉教者のように生きることはできない」、「私は苦しめられたり、殺されたりするのが怖いから、逃げてしまうに違いない」などです。しかし、イエスの話を聞いていた12弟子たちや、群衆の中にも同じように、殉教は怖い、殉教はいやだと思った人がいたかもしれません。
 日本の禁教の歴史において、キリスト教信者かどうか調べるために行っていた「踏み絵」がよく話題に上ります。踏み絵を踏むか踏まないか?そういう話をします。
 しかし考えてほしいのです。あなたはまったく自由な意志で、踏み絵を踏むか踏まないか決められますか?ほとんどの人は無理だと思うのです。なぜなら人は一人で生きているのではありません。親もいれば兄弟もいます。親しい友人、仕事仲間もいます。自分が踏み絵を踏まなければその人たちはどうなるのでしょうか?
当然、役人に捕まり取り調べを受けるでしょう。中には信者であると分かって処刑される人も出てくるでしょう。したがって、踏み絵を踏むか踏まないかは、自分一人で決めることのできる問題ではなかったのです。迫害の歴史の中では、はっきりと自分はイエス・キリストの仲間であると公言して、殉教していった人たちも数多くいました。しかし、多くの殉教者はそうではなかったのです。
 「踏み絵を踏もう」そう決心して、朝、家を出ます。家族や仲間を守るためには、仕方のない選択でした。ところが、踏み絵の前に立つと一瞬躊躇してしまうのです。それでも気を取り直して踏むのですが、時すでに遅しです。役人は、踏むか踏まないかを見ていません。全員踏むからです。踏む前に迷いがないかどうかを見ていたのです。役人にとがめられた人は、言葉ではなく、態度で自分はイエスの仲間であると表してしまったのです。
 日本の殉教時代の人々も、私たちとまったく変わらない普通の人たちでした。殉教なんて絶対できないと思っていたのです。しかし、殉教の道へ追いやられていったのです。まさに「覆われているもので現れないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」ことが起こったのです。
しかしいったん殉教への道が開かれると、彼らは堂々とその道を歩み始めたのです。 だから、イエスは弟子たちに繰り返し「恐れるな」と呼びかけます。何度も「恐れるな」と繰り返されます。信仰の道はその場、その時になれば、自然に道が開かれてゆくものなのです。信仰は、自分の選択によるのではなく、神の導きによって進んで行く道なのです。だから「恐れずに」神にすべてを委ねましょう。

6月28日A年 年間第13主日 
 新型コロナウイルス感染症の影響によって、新しい生活様式が提唱されました。コロナウイルスが身近にあることを前提とした生活をすることが求められているのです。しかし、二千年も前にイエス様は、信仰に基づく新しい生活様式を提案していたのではないでしょうか。それが今日の福音です。
 新型コロナウイルス感染症の影響で、外出自粛が要請されました。仕事が休業や自宅勤務に切り替わり、学校の授業も休みになりリモート授業が行われたりして、家族が家に一緒にいる時間が格段に増えた家庭が多かったと思います。街角の公園や芦屋川の河川敷に、家族連れの姿がよくみられました。その反面、親が施設に入所している場合などは、家族であっても面会ができなくなるケースがありました。家族が離れて暮らしている場合、移動の自粛によって家族が会う機会を失ってしまうこともありました。
 家族が一緒にいる時間が長くなったことで、家族の関係やあり方を見直す機会になった家族もあるでしょうし、逆に会えなくなってしまったことで家族の絆について考える機会を得た家族もあったのではないでしょうか。家族が一緒にいることで、家族のありがたさを感じてより親密な関係を作った家庭もあるでしょうし、家族間の濃厚な接触により互いに傷つけ合ったり、時にはDV、家庭内での暴力にまで発展してしまったりする家族もありました。
 たぶん二千年前のイエス様の時代も家族の関係は現代とそれほど違わなかったでしょう。もちろん、イエス様もヨゼフさまとマリアさまとの家族を大切にしておられたのは間違いありません。家族は社会の基礎の共同体であり、そこが崩れては社会も崩壊してしまいます。だから、家族は守られなければならないですし、大切にされなければならないのです。
 イエス様もそのことは十分承知されていました。その上で家族に勝る新しい関係があると言われたのです。第二朗読でパウロが言うように、洗礼によってイエス・キリストに結ばれて教会という新しい家族関係が生まれるのです。イエス様は、そのような新しい生活様式を提唱されたのです。その新しい生活様式を大切に育ててゆこうとされたのです。
 私たちは、コロナと共存するために新しい生活様式を身に付けなければなりません。長期間、公開ミサがなくなり教会活動も極度に制限されたこの期間は、自分の信仰を見直す機会になりました。信仰は強まったか、弱くなってしまったか、そもそもどうだったのか、問いかけられたことはたくさんありました。そしてこれからも。
 たくさんの制約の中でミサと活動を再開させてきましたが、新しい信仰様式を作り上げなければならないとの課題に直面しています。どのように自分の十字架を担ってイエス様に従ってゆくのか?
 いまこそ原点に返って、この機会をピンチではなく新しいチャレンジをする時だととらえて、新しい信仰様式を作り上げて行きましょう。

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