11 月 1 日 A年 諸聖人(祭日)
 「あの人は聖人だ」というとき、まねができないくらい清らかな人、人徳の高い人物。あるいは少し変わった人、近寄りがたい人との悪い意味もあるように感じます。しかしそれは、 カトリック教会の聖人とは少しイメージが違うように思います。
 カトリック教会では、イエス・キリストへの信仰のために殺された人々、信仰を守り通し てみんなの模範になった人を、聖人として認めています。聖人にすることを列聖と言います。 聖人の列に加えるという意味です。イエス・キリストの福音を具体的に理解するために、福音に従って生きた聖人の姿がその道しるべとなります。
多くの人々が素晴らしいと感じ、社会や教会に大きな影響のあった人物を教会が慎重に調べて、その人物の生き方が私たちをイ エス・キリストに導いてくれることを判断し、宣言することが列聖です。
 聖人と聞いて、誰を思い浮かべますか。有名な聖人もたくさんいます。日本にキリスト教 を運んできた聖フランシスコ・ザビエルは有名です。
彼の肖像画は、大阪府茨木市の千提寺 というところから発見されました。キリシタンの子孫の家から出てきました。フランシスコ・ ザビエルは立派な人物であることは間違いないのですが、人格的に優れた人間かというとそうでもないこともありました。フランシスコ・ザビエルは怒りっぽかったといいます。今や 死語ですが、瞬間湯沸かし器のような人物だったのです。私も怒りっぽいので、親近感を覚 えます。このように聖人とはいえ、人間的な欠点は持っていたのです。 それでは、どんな人が聖人になるのでしょうか?イエス様は、今日読んだ聖書の個所でこう教えておられます。「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え渇く人」「義 のために迫害される人」「憐れみ深い人」「心の清い人」です。神様を深く愛して、神様を 強く探し求めて生きた人が、教会に認められて聖人になるのです。
  その祈りに支えられて、 私たちもイエス様と一緒に生きてゆくことができるのです。「諸聖人の日」である11月1日は、私たちのために祈り続けてくださる聖人たちに感謝する日なのです。

11月8日A年年間第32主日
 柏木哲夫(淀川キリスト教病院理事長)さんの言葉に、「人は生きてきたように死んでゆく」というのがあります。司祭になって、たくさんの人の葬儀を担当してきましたが、その言葉通りだと思うことがたくさんありました。その人がどのような人生を歩んできたかが、その人の最後の時によく表れるのです。今年も芦屋・甲子園教会で、何人ものおみおくりをさせていただきました。それぞれに違いはあるものの、良い葬儀ではなかったかと思います。
 カトリック教会では、亡くなることを「帰天」と呼びます。私たちは天から降りてきて、産まれ人間になりました。人生の最後に、神様が息を引き取ると私たちは死にます。そして、元来た場所、天の国へと帰ってゆくのです。元の場所へ帰る、つまりいるべき場所へ戻るのですから、別れには悲しみは伴いますが、どこかに明るさがあるように思えます。カトリック教会の葬儀は、じめじめしていなくて明るくてよいと言われることがありますが、帰天の考え方が影響しているのではないでしょうか。
 イエス様は「決定的な終わりの日はいつ来るか分からない、天の父だけが知っている。だからその時のために、いつも目覚めて用意していなさい」と言います。この言葉から分かるとおり、今日の福音のテーマは終末です。終末とは、私の人生の終わりの時であり、この世界の終わりの時でもあるのです。そして、終末とはいつか来る最期、ことばを変えると完成の時なのですが、それだけではなく、すでに私たちの足元、毎日の生活の中に始まっているのです。それだけに、この日、この時をどのように過ごすべきか、終末に向けてどのような準備をするかが問われているのです。
 イエス様は、終末について、花婿を迎えに行く十人の乙女のたとえを用いて説明します。この乙女たちは花嫁のつきそいとなるべく選ばれた若い女性たちです。
花嫁と同じ年頃で、自分たちもやがて結婚相手と巡り合い、花婿を迎える立場となる乙女たちは花嫁と同じ気持ちで花婿の到着を待ちわびているという設定です。
 十人の乙女は、みな若く、美しく着飾り、外見からはみな同じように見えたことでしょう。しかし、その中の五人は賢く、五人は愚かだったと言われています。
 十人の乙女たちは灯し火をもって花婿を迎えに行くという、自分たちの役割を知っていました。ところが、いざ花婿の到着の時が来て、乙女たちの間には大きな差が生じました。賢いおとめたちは花婿を迎えることができましたが、愚かなおとめたちは、油がないという自分たちの準備不足に気づきましたが、時すでに遅く、
油を買いに行かなければならず、花婿を迎えることができなかったのです。賢いおとめと愚かなおとめを分けたもの、それはわずかな差でした。灯し火とともにそれに注ぐ油を用意していたかどうかでした。愚かなおとめたちはわずかな油がないために、灯し火に点火できなかったのです。油を断つと書いて「油断」という、まさに油断していたと言うべきでしょう。十人の乙女のたとえ話が私たちに伝えているメッセージは、終末のそのときに向けて、自分たちの果たすべき役割をしっかりと知ること、しかもその役割に忠実に向き合い、何が必要であるかを十分に考えて準備し、実践することが大切だということです。
 いつ来るかわからない、決定的な終わりの時に向けて、一日一日をどのように準備するのかが大切なのです。その時が来てから慌てふためいても、時すでに遅しなのです。
 
11月15日A年年間第33主日
「使えば使うほど増えるものは何ですか?」と聞かれたら何と答えますか?私の父はすぐさま買い物の「ポイント」、母は「ゴミ」と「光熱費」と答えました。答えを聞いて、もっとましなものはないのかと、思わず三人で笑ってしまいました。
 東京都足立区の六木小学校で、佐々木校長が子供たちに「使えば使うほど増えるものは何ですか」と出題しました。子どもたちの答えで多かったのは、①「やさしさ・思いやりの言 葉」41%、②「ゴミ」30%、③「知恵・知識」16%でした。他にも「あいさつ」や「やる気」、「勇気」というものもありました。佐々木校長は、子供たちの回答から、「友達に意地悪をしないで親切にすること」、「物を無駄使いしないで大切にすること」、「基礎的基本的な知識や技能を確実に身に付けること」、「お金は計画的に有効に使うこと」など、子供たちは大切にしなければならないことがよくわかっていることがわかりますと、子供たちの思考力に改めて感心したと語られました。
 今日の福音に出てくる「タレント」という言葉は、本来はギリシアで使われていた貨幣の単位を表す言葉でした。今日のたとえ話によって、才能や能力という意味で使われるようになりました。才能や能力とは、何かができることであり、何かをする力が備わっていることです。ノーベル賞をとることができるような発明をすると、「あの人にはタレントがある」といわれます。サッカー選手がW杯に出場して、活躍できるのもタレントがあるからです。
 ノーベル賞をとったり、W杯に出場したりできなくても、誰にでもタレントはあります。健康であることもタレント。働くこと、学ぶことができるのもタレントがあるからです。神様を信じる力、信仰もタレントです。愛することができるのもタレントがあるからです。どんな人でもタレントをもっています。今日の福音のように、神は私たちにタレントを預けています。お金は使えば使うほど減っていきますが、タレントは使えば使うほど増えていきます。せっかくもっているタレントも使わなければ何の意味もありません。
 今日の福音のテーマは、タレントを使うことの大切さです。使った人はほめられ、使わない人は責められます。
5タレント、2タレント主人から預かった人は、それを使ってもっと多くのタレントを稼ぎました。
1タレント預かった人は使わないで、隠しておいたので主人から怒られました。
お金を土の中に埋めておくということは、当時としてはもっとも安全な保管の仕方で、預かったお金を受け取ってすぐに地面に埋めたものは、万一盗まれても返さなくてもいいことになっていました。ところが、主人は、この僕を悪い怠惰な僕としてしかります。せめて銀行に預けるなどして、その1タレントを少しでも増やすべきでした。
 イエスはこのたとえを通して、タレントは使えば使うほど増えるのだから、神の国の建設のために自分に与えられたタレントを使いなさいと教えます。タレントを与えてくださるのも、それを使ったとき増やしてくださるのも神様です。ところが、私たちは自分に与えられているタレントを、十分に生かさず、自分の中にしまったままにしておくことが多いのではないでしょうか? 失敗することを恐れたり、批判されることを避けたり、自分の事を守るために、タレントを使うことが怖くなると、結局何もしないまま終わってしまいます。
 自分に与えられたタレントを使うには、勇気が必要です。勇気もまた使えば増えます。私たちは神の力に信頼して、勇気を出して自分に与えられたタレントを使っていきましょう。
 
11月22日A年「王であるキリスト」
 イエス・キリストは王です。イエスとともに生きた人々には、イエスは王であるとの認識があったことは間違いありません。イエスがエルサレムに入城するとき、人々は尊敬をもってイエスを王として迎えました。ピラトはイエスに対して「お前はユダヤ人の王なのか」と質問しました。イエスが十字架への道を歩まれるとき、ローマ兵はイエスをあざけって「ユダヤ人の王、万歳」と叫びます。十字架の上には「ユダヤ人の王」と書かれていました。それらは、イエスが王になろうとして失敗して十字架につけられて殺された惨めな男だと侮辱するためでした。
 しかし、イエスは本当の王でした。神が人間になって人々に仕えたように、十字架で死ぬことによって、パウロが言うようにすべてを支配するだけでなく、死をも滅ぼすことができる王になったのでした。人間の王のように、民の上に君臨し、支配するだけの王様ではありませんでした。イエスは十字架を通して、王の概念を変えてしまったのです。
 今日の福音、イエスは弟子たちに終末の日の裁きを語ります。ここでもイエスは裁きの概念を転換しています。イエスの時代、神の裁きの前に立って問われるのは、律法をきちんと守っているかだと、宗教的指導者は教えていました。掟を忠実に守り、断食の義務を果たし、神殿に決められた税金を納めることが大切にされてきました。
 それに対してイエスは、神の裁きの前で問われるのは、掟を守ったかどうかではなく、食べるものがない飢えた人、飲み物にも事欠く人、泊まるところをもたない旅人、着る服を買うことのできない人、病気や投獄のために苦しんでいる人にどのように接したかだと言いました。イエスが兄弟と呼ぶ、最も小さな者にどのように接したかが問われるのです。さらに、イエスは救われるかどうかの究極の基準が、実は自分の救いに関係があるとは思わなかったような日常生活での人との関わりにあると断言したのでした。ここにイエスの新しさがあります。
 掟にあるから最も小さな者に手を差し伸べるのではなく、自分が救われたい一心で愛の業を行うのでもなく、ごく自然に目の前にいる、困っている人、苦しんでいる人に必要とされる援助を行うこと、そこに神は目を留められるのです。それは、イエスご自身が行ってきたことの他なりません。
 自然に目の前にいる、困っている人、苦しんでいる人に必要とされる援助を行うといっても、キリスト者であればしなければならないと決めつけると、それがまた掟になり、援助さえしていれば救われるのだと考えるようになるかも知れません。そうなると、律法が援助に変わっただけになってしまいます。
 また、自身が傷ついて自分のことだけで精一杯の人もいます。傷ついている人はまずいやしを受けなければなりません。イエスもペトロに「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と優しく声をかけています。人それぞれに事情があるのです。私たちの信仰生活の課題は、イエスが最も小さい人々に示された愛と共感を自分の中に育てることなのです。
 
11月29日B年待降節第1主日
 今日は、待降節第一主日です。また、新しい典礼暦年であるB年の始まりでもあります。気持ちを新しくして信仰生活に取り組んでゆきたいものです。新しい典礼暦年はまずクリスマスを迎える準備から始まります。準備のための最初のテーマが「目を覚ましていなさい」なのです。
 「気をつけて、目を覚ましていなさい」と、イエス様は弟子たちに言いました。この言葉が今日の福音の中心テーマです。それでは、何に気をつけて目覚めている必要があるのでしょうか?
 クリスマスを迎える準備という面から考えると、主の降誕を目覚めて待つとのメッセージと受け取ることができます。いつイエス様がお生まれになってもよいように、万全の準備を整えて待つことが求められているのです。
 また、家の主人が旅立ち、やがて思いがけないときに突然帰ってくるように、イエス様は、私も終末の時に帰ってくるのだと弟子たちに教えました。この話から、イエス様の昇天と終末の時、ふたたびこの世界に来られて救いを完成される再臨の時についてのメッセージでもあると考えられます。
 幼子イエスのお生まれになる時を待つことと、この世の終わりに再び来られるイエス様を待つことに共通しているのは、神の到来を待ち望むということです。
そして、今日の福音のイエス様の言葉は、弟子たちに向けられると同時に、教会ないしは教会のメンバーである私たち自身がどのような態度をとるべきかを教えているのです。
 まず、神の到来は喜びの時であることが大切です。幼子イエスの誕生を迎えるクリスマスが喜びの時であるのと同じように、旅に出ていた主人が戻ってくるのも喜びの時です。その主人は、わざと僕たちが寝ている時間を選んで寝ているのをとがめるために帰ってくるのではなく、一秒でも早く僕たちのところに帰ってこようと努力する主人なのです。それがたまたま夜中や明け方になってしまうのです。
 初めての子どもを迎えるとき、周りの人々は大きな喜びと少しの不安を抱きながら、それぞれに与えられた準備の役割を果たすでしょう。母親になる人は母親になる準備を、父親になる人父親になる準備を、おじいちゃん、おばあちゃんになる人はその準備をします。
 イエス様はそれとまったく同じように、神の到来を待つ人々に仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましておくようにと命じられます。神の到来にむけて自分に与えられた役割をしっかり果たしながら必要な準備を整えることと、少しの変化も見逃さないように見張る門番のように、注意深くその時を見極めることが求められています。
 教会(私たち)は、神の到来という喜びの時に向けて、イエスの弟子たちから主任の僕たちと門番の役割を引き継いでいるのです。私たちも喜びを待つ者として、教会の役割に積極的にかかわってゆきましょう。神の到来を主人であるイエス様と一緒にお祝いできますように。
 
 


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